聖女医
イヤな予感がした。
往人は山道を駆け上がる足を早めた。
この街で一番空に近い場所……神社に続く山道を。
あそこは一度探したはず。
誰もいない神社の境内。
昼間の、夏なのに寒々しく感じた、あの光景。
あの場所には、佳乃はいなかった。
あそこには誰もいなかった。そのはずだ。
境内に続く石段を駆け上がる。
もう、鳥居が見えてきた。
そして。
そこに、いた。
境内の奥。
古くなって黒ずんだ社の前。
その木造の建物の前に、青ざめた顔で倒れていた。
「佳乃!!」
いなかったのに、そこにいた。
そこで、倒れていた。
手首から、大量の血を流しながら。
がちゃ。
診察室のドアが開く音。
佳乃をここに運び込んでから、ずっと待ち望んできた音だ。
中から白衣に身を包んだ長い髪の女が出てくる。
美しい女だった。
切れ長の目が魅力的な、女神のような女。
ドアから現れたのはそんな女だった。
「……どうだ?」
待合室のソファから立ち上がり、往人は診察室から出てきたその女がこちらを見る前にそんな言葉を言った。
女はこちらを沈んだ表情で見てくる。
それだけで、佳乃が一体どういう状態なのか分かった。
彼女の名前は霧島聖。佳乃の実の姉。そして唯一の肉親。
おそらくこの世で一番佳乃を愛しているひと。
彼女の職業は医師。しかも相当に腕のいい医師だ。
その彼女が最愛の妹をその手で診たのだ。
おそらく本当に全力でもって治療を施したに違いない。
これ以上無いほどに。
けれども。
診察室を出てきたときの表情は沈んでいた。
それが何を意味するのかは……分からない者などいないだろう。
彼女は言った。沈んだ表情のまま。
「……わからない」
声には絶望が秘められていた。
「あれだけ出血していたのに……何故か外傷が無いんだ……。その他は呼吸も脈拍も正常。
……でも。
……目覚める気配が……全く無いんだ……」
最後の方の声は震えていた。
俯く。俯いて自分の細い肩を抱く。
そして待合室に備えられたソファのひとつに腰を下ろした。
「佳乃……佳乃……」
肩が震える。震えながら、彼女はうわごとのように妹の名前を呼ぶ。
その姿は、いつもの明るく自信に満ち溢れた彼女の姿からは想像できない姿だった。
ズキリと、心が痛む。
痛々しかったから。
―――それに。
往人は……彼は歩み寄っていた。
聖の傍に。
気がついたらそうしていたのだ。
自分の手が聖の細い下顎にかかっていることも気がつかなかった。
そんな自分の一連の行為に気がついたのは。
そのまままるで自然な動きで彼女の唇に自分の唇を重ね合わせた後だった。
―――それに。
好きだったから。
彼女のことが好きだったから。
っどん。
往人は、自分の胸を強い力で押しのけられ、ようやく我に返った。
聖がこちらを見ていた。
自分の唇を押さえ、切れ長の目を限界まで見開きながら。
細かく震えている。しかし、それが別種の震えであることは誰の目にも明らかだ。
瞬間、彼は自分のした事を本当に理解した。
―――俺は―――何をした―――!!?
身体に震えがくる。
自分は今、聖にキスをした。
彼女の恋人でも夫でもないのに。
何故だ―――?
彼女が好きだったから。
いや。
そんなことは理由にならない。
本当の理由は―――
今ならこの女を自分のものにできる。
そんな醜い自己中心的な考えが無意識の内に働いたからだ。
―――卑劣だ。
―――最低だ。
自分は流れ者。
特別に金があるわけでも、頭がいいわけでも、力があるわけでもない。
あるものといえば、親から受け継いだ、この「法術」という見せ物以外に何の役にも立たない怪しげな能力のみ。
だから、せめて心根だけは真っ直ぐでいよう。
いつとは無しに、そう誓ったはずだ。
それなのに。
―――本当に―――最低だ。
自分が恥ずかしくなる。
「……すまん……」
謝ってどうする。
そんなことは分かっているが。
しかし、それしかできなかった。
今、自分の背後に聖がいる。
彼は彼女に背を向けていた。
愛する妹の目覚めは絶望的。
そしてその心の隙に自分という男に裏切られた。
ズタズタになっているだろうことが分かった。
彼女の心が。
彼女は今、失意の底に佇んでいる。
……そうしたのは自分だ。
ただでさえ傷ついていた彼女の心を、さらに傷つけた。
どうしようもなく、最低な男だ。自分は。
……もう、この場所にはいられない。
いる資格が無い。
出てゆこう。
この街から。
―――逃げ出すのか?
心の声。
いや。
出て行くだけだ。
ここにいる資格が無いから。
だから出て行く。
当然の結論だ。
ただし。
―――ひとつくらいは彼女の心の傷を埋めていく―――
「……国崎君?」
診察室のドアノブに手をかけたとき。
背後から聖の声がした。
「……心配するな」
振り向かずに言った。
ドアノブを回しながら。
「佳乃は必ず起こして見せる。俺が、必ず」
あてはあった。
佳乃がおかしくなったのはあの神社が発端だ。
聖はそう言った。
ならばあそこに佳乃を元に戻す何かもあるはず。
何が何でも、それを見つけてみせる。
この姉妹に……いや、自分が惚れた女に笑顔を取り戻してやる。
自分に残った最後の誇りをかけて。
………。
…………。
……………。
ざっざっざ。ざっざっざ。
互いに一言も発しないまま、二人は石段を登っていた。
この階段の先に、神社がある。
佳乃を背負ったまま、振り向かずに登り続ける往人。
それに付き従うように、やや俯き加減でついてくるのは聖。
暗い石段を、灯りもつけずに登っている。
………。
…………。
……………。
ざっざっざ。ざっざっざ。
………。
…………。
……………。
ざっざっざ。ざっざっざ。
無言。
二人とも一つの言葉も交わさない。
石段の左右を挟む古い石灯篭を何個か過ぎ。
そうして石段を中ごろまで登ったとき。
「……なぁ」
聖がそんな一言を発した。
迷いに迷ったが、決心してようやく発した言葉。
そんな声だった。
「……なんだ?」
往人は振り向かなかった。
硬い声。強張った声だ。
………。
…………。
……………。
ざっざっざ。ざっざっざ。
………。
…………。
……………。
ざっざっざ。ざっざっざ。
「……すまない。何でもない」
そして。聖はそれきり口を開かなかった。
神社。
そこで往人は佳乃の身に起こったことの真実を知った。
それは古代の記憶。
古代の母親の記憶だ。
それが佳乃の身に入り込んでいたものの正体だった。
佳乃を連れ戻す。
そのためには俺の力の全てを使い切ってもかまわない。
聖に本当の微笑を取り戻させるためならば。
そして彼は―――
「……容態は安定している」
診察室から出てきた聖は、待合室で待っていた往人にそう告げた。
椅子に腰を下ろしていた彼は顔を上げた。彼女を見るために。
二人は神社から戻ってきた。
佳乃を連れて。
いや、佳乃を取り戻して。
往人は佳乃の沈み込んだ意識を現世と繋げ、佳乃がこちら側に戻ってくる道を作った。
そしてそれが成功したのだ。
……自分の法術の力全てと引き換えに。
(……これで……聖に佳乃を取り返してやれた)
もう法術は使えない。自分の商売だった人形劇はもうできない。
それが分かった。実際に力を使おうとしなくても。
しかし、それを後悔する気持ちは全く無かった。
何故って。
「……それに……
佳乃の顔に血色が戻っているんだ」
そう告げる聖の声は震えている。
前とは違って、喜びに。
もう大丈夫だ。佳乃は元に戻る。
それを確信しているのだろう。
佳乃を救うことで法術の力が枯渇してしまったことに後悔は無い。
何故って。
……自分の法術の力全てを引き換えにしても、やる価値はあったから。
これでいい。
これでいいんだ。
……さて。
彼は腰を上げた。
いくか。
佳乃を救ったんだ。
もうここにいる理由は無い。
いや。いる資格が無くなった。
彼は歩き出す。
これまでと同じように。
この街を出て、どこか別の街へ。
また流れの旅人に戻るのだ。
これまでと同じように。
さようなら。
さようなら聖。
最後にお前の笑顔を取り戻せて、本当に良かったよ。
視界の隅の最愛の女へ、心の中での別れの言葉。
何も言わない。
言わずに去る。
言えば彼女の心に何かを残せるかもしれないが、それはただの自己満足だ。
何も言わずに消えるのが一番いい。
彼は出入り口のドアノブに手をかけた。
このままふらりと外に出て、そのまま戻ってこないつもりだった。
ごく、自然に。
そのときだった。
「……どこに……行くんだ?」
すぐ後ろから、聖の声がした。
いつのまに背後に立たれていたのか。
「……どこに行くんだ?」
返事が無いからか。
背後の聖は同じことを訊いてきた。
その声は不安な気持ちに満ちている……気がした。
答えたくない。しかし……
「……出て行く」
答えたくなかった。しかし彼女に対してまた裏切り行為を働くのは耐えられなかった。
未練がましいヤツだと思われても仕方ないと思う。しかし嘘をつくのは耐えられない。
この女に……聖に対して。
「……どうしてだ?」
彼の返答を聞いた彼女の声は震えていた。
何故?
「…………!」
唇がわなわなと震えるのが分かった。
言いたくない。こんなことは。
「俺は……」
だが、言うしかない。
「俺は……お前を………裏切った」
詰まりそうになる声。
だがそれを必死で押し出して、告白する。
「……俺は……前から……」
心に大きな壁ができる。言いたくない。言うな、言うなと叫び喚く。
だけど、言わなけりゃいけない。
「……お前が好きだった」
最低の愛の告白だ。
「そして俺は……弱っているお前を見て……今ならお前を俺のものにできると……そう思った。無意識でな……。
……俺は卑怯者なんだよ……だから出て行くんだ……」
自分がいかに最低な人間か。
それを一番好きな女の前で告白する。
身体が震えた。
心が血を流している。
一言ごとに、傷口が開く。
しかし、それは自業自得だ。
やめるわけにはいかない。
「だから……」
「待ってくれ」
だが。
続けようとした往人の言葉が、聖の言葉に遮られた。
何か強い意志が篭もった彼女の言葉に。
……?
往人の告白は、聖のその言葉に対する驚きと疑念で止んだ。
聖……?
振り返るまいと思っていた背後に、無意識に身体が動きそうになる。
続く言葉で彼は我に返った。
「……私は……キミにキスされたとき……
……空っぽになった……驚きで。
そして……」
聖の顔は見えない。
今彼女がどんな表情でいるのかは分からない。
だがその声は……こみ上げる辛い感情を押し殺している。
そんな声だった。
彼女は辛そうだった。
隠しておきたかった何かを言葉にして必死で紡ぎ出している。
そういう感じだった。
まるでさっきの誰かみたいに。
「そして……」
彼女の声が小さくなった。
陰に篭もっていく声。
「そして……!」
まるで壊れた蓄音機みたいに同じ言葉を繰り返す。
その言葉は、言う度に小さくなっていく。
聖が何を言おうとしているのか。
それは、こういうことだった。
「……嫌じゃなかったんだ。キミにキスされて」
何だって……?
今度は往人が驚かされた。
彼女も自分が好きだった。
彼女は今そう言ったのか?
本当に……?
驚愕と、間違いなく喜びを感じる心臓。
鼓動が早くなっていくのが分かる。
こんな状況なのに。不謹慎だとは思う。しかし。
自分の心臓の音が聞こえる。
抑えられない。
「……キミはいつもいて欲しいときに傍にいてくれた。
そんなキミが……いつの間にか好きになってたんだ。
……佳乃もキミが好きなのにな……」
だが聖の声はますます陰に篭もっていく。
痛々しいほどに。
すすり泣きに似た声に変わっていく。
ズキン。
また、心が痛んだ。
心の傷口が開き出した。
俺のせいで、聖が辛い思いをしている。
襲ってくる聖の言葉で舞い上がっていた自分に対する自己嫌悪。
……最低だ。
聖がこんなに辛い思いをしているのに。
ファサ。
背中に当たる暖かく柔らかい感触。
聖が背中に縋りついてきたのだ。
そのまま自分の言葉を続ける聖。
「……私は……本当に駄目な姉だな。
キミを好きになったのは佳乃が先なのに……
それを……横取りするような真似をしてしまうなんて……。
でも……」
ぎゅっ。
さらに強く往人の背中に縋りついた。
「聖……」
戸惑いが混じった声とともに。
往人は振り向く。
涙を浮かべた顔で見上げてくる聖。
見詰め合う二人。
そうしてしばし静寂の時間が流れた後。
目尻の涙の筋を拭い、聖がスッと瞼を閉じた。
そして今度は。
ごく自然に二人の唇が重なりあった。
まるで一枚の絵画のように。
聖の部屋は、片付いた部屋だった。
殺風景と言ってもいいかもしれない。
壁にはポスターの一枚も無く、花も人形も置いていない。
あるのはベッドと、鏡台と、本棚だけ。
聖という女がどういう人生を送ってきたかが表れている部屋かもしれない。
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